駿州男児のれきし散歩

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【新五千円札】6歳で最年少渡米した津田梅子の壮絶な人生とは?!

津田梅子ってどんな女性だっけ?

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津田梅子

 

こんにちは!

今回の発信は2024年から新五千円札肖像に決定した津田梅子さんです!

(以下敬称略させてもらいます)

新札関係でこちらもどうぞ。。⬇

 

kuboryo1713.hatenablog.jp

 

kuboryo1713.hatenablog.jp

 


 

津田梅子といえば、、、

津田塾大学で有名ですよね、でもあとはどんなことをしていたのでしょうか?

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新札の肖像になるということで、この際どんな人物なのか探っていきましょう!

今回はこちらを参考にまとめました。

津田塾大学ホームページ

津田梅子 誕生

津田梅子は父・仙、母・初子の次女として1864年12月31日に江戸牛込南御徒町(うしごめみなみおかちまち)に生まれました。

 

当時の牛込はさほどではありませんでしたが、ここは今でいう新宿区なので超一等地で生まれましたね。誕生日も晦日で覚えやすいです(笑)

 

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しかし梅子が4歳の頃、江戸幕府は終焉(しゅうえん)を迎え、幕臣だった父・仙は職を失い、引っ越しを余儀なくされます。

その後、向島という場所での生活を経て、父の仕事の関係で麻布に引っ越してきました。

アメリカ留学

父・仙の上司は、あの有名な第二代総理大臣も務めた黒田清隆さんでした。

黒田は将来の日本のためと思い、5人の女学生を留学に行かせようとしました。

 

留学

当時留学というだけでも、ほとんど誰もしたことがなく

ましてや女学生だけで留学にいけるほど女子教育は、当時の日本に普及していなかったのです。

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岩倉使節団

だから有名な岩倉使節団についていかせたのです。

梅子は数え歳では9歳でしたが、なんとこの時、満年齢6歳という若さで渡米しました。

もちろん最年少です。

ちなみに数え歳というのは、生まれた時は0歳ではなく、1歳になります。

そして1月1日に日本全国全員1歳歳を取ります

つまり、梅子の場合、、、

誕生日が大晦日なので生まれて1歳になり、翌日の元日には2歳になっていたのですね。

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一番小さい子が梅子です

数え年はさておき、私でさえまだアメリカに行ったことがないのに、津田梅子は小学一年生という年齢で渡米するなんて凄い!父・仙もなかなかすごいですけど(笑)

まさに「かわいい子には旅をさせよ」ですね。

留学中の活動

アメリカではランマンさんという夫妻の家に預けられました。

 

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アメリカで小学校、中学校の勉強を修め、

英語はもちろん、音楽やキリスト教のことについても学び、

最終的にキリスト教の洗礼を受けるまでなりました。

 

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当初の帰国予定よりも延長させ、結局アメリカに11年間もいました。

6歳まで日本で過ごし、11年間アメリカにいるので、物心が付いてからの

生活年数は圧倒的にアメリカでの方が長かったのです。

帰国後のバタバタ

さーてアメリカでの生活が長かった梅子が、幼い頃にいた日本にいきなり帰国してどうなるでしょう?

最初浅草で人力車に乗って日本語をいざ話そうとしたら、

 

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日本語が出てきませんでした

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それはそうですよね〜人生の半分以上をアメリカで過ごしているのですから。

その後、なんとか日本語を取り戻しましたが、

今度はカルチャーショック(文化の違い)の壁にぶち当たります。

 

アメリカの生活文化(土足など)を十分に習得した梅子は、日本での生活の仕方や

日本的作法やマナーに戸惑っていたのでした。

 

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これは寄せ箸という「嫌い箸」の一つで忌避されますよね

日本での活動

帰国後は多くの人から慕われ、開国後の日本を引っ張るリーダー的存在になっています。

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と言いたいところでしたが、その時女性の地位は男性と比べると少しばかり低かったのです。

当時日本で梅子は伊藤博文に英語を教えていたり、

女学校で英語の教鞭をとるなどして活動をしていました。

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そして生徒たちに教えているうちに梅子は思いついた、

女子教育をもっと拡充せねば、そして女性の地位を上げなければ」と。

 

そして、なんと2度目の留学を決意し、

 

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1889(明治22)年から2年間ブリンマー大学というアメリカの大学に行きました。

津田塾大学創設

2度目の留学から帰国後、自分の考えや教えを広めるためにどうすればいいのか??と思い、

自分の学校を作ることを決意します。(それが一番早いですよね!)

ヘレン・ケラーナイチンゲールという素晴らしい活躍をされていた女性と

梅子も出会い、影響を受けます。

 

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ナイチンゲール

帰国から8年後の1900年にはついに「女子英学塾」を開校します。

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開校式で梅子は、人間としてはもちろん、

all−round womanとなるよう心掛けねばなりません」と述べています。

授業自体は厳しく、逃げ出す生徒も最初は多かったみたいです(笑)

 

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しかし、私が思うに、当時の女子の学校と言えば、良いお嫁さんになるための「花嫁修業」など礼儀作法を学ぶ場でした。

それと勘違いするか、すこし教養を付けるために入ってきた人も一定数いたのでは?と思います。

現在の「津田塾大学」という名前になったのは戦後の、昭和23(1948)年でした。

亡くなったのは64歳の年齢で、昭和4(1929)年、ですから、自分の名字が冠された大学というのは見ずに亡くなったということになりますね。

 

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でも、生きているうちは逆に自分の名前を付けなかったかもしれませんね。

まとめ

今回は津田塾大学創設者で、新五千円札の肖像にも

採用された津田梅子の生涯について見てきました。

新五千円札の肖像

津田塾大学は、現在、関東方面では東京女子大日本女子大と共に

女子大の御三家の一つに数えられて有名です。

そんな津田塾大学創設者として知られている津田梅子は、2度も留学をし、

女子の教育レベルや地位を上げるために奔走した強い女性だということがよく分かりました。

 

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開校式で言った言葉を、

英語を交えて表現するあたりも、英語を専門に研究しなさいという

考えと、強い女性として生きなさいという思いが見て取れて、

津田梅子さんらしいと感じました。

 

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