【2021年大河ドラマ】2024年からは新一万円札の渋沢栄一の激動の人生とは?!
吉沢亮さん主演の大河ドラマの主人公、渋沢栄一の常識
こんにちは!アネチミの日常です!
今回の発信は2024年に新一万円札の肖像に決定した渋沢栄一さんです!(すみませんが、以下敬称省略させてもらいますね)
意外に知られてないことですが、実は日本よりも先にお隣韓国では、
1902年から2年間、1円、5円、10円券に渋沢栄一の肖像が使われていたのです。
日本でも一度渋沢栄一を肖像に使うという話が上がりましたが、その時は却下されてしまっています。
さて、今回新札に採用されたことで、今年2021年には吉沢亮さん演じる渋沢栄一の大河ドラマ「青天を衝け」が放送されました。
吉沢亮さんが好きなので、どんな風に描かれるのか、とっても楽しみでした。結果がとっても面白く見いてしまいましたね。
以下からドラマの復習がてら渋沢栄一の生涯について確認していきましょう!
新千円・五千円札に採用されたお二方の説明も以下のリンクにありますので、この際に学んでいくといいかもです(^^)
生没年
1840(天保11)年2月13日に武蔵国榛沢郡(はんざわぐん)血洗島(ちあらいじま)の農家に生まれました。現在の埼玉県深谷市です。
以前JR深谷駅に行った際に、渋沢栄一立像があったことを思い出します。
にしても血洗島って一度聞いたら忘れない名前ですよね。
上京した渋沢栄一は血洗島の出自だと仲間に話すと、やはり血洗島の由来を何度も聞かれていたようですね。
由来についてはこちらを参照されると良いかも↓↓深谷市の渋沢栄一デジダルミュージアムhttp://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/shokai/story/1400203254187.html
亡くなったのは、今から90年前の1931(昭和6)年11月11日で、
91歳という長寿を全うして生涯を閉じました。
江戸時代の天保年間から昭和の初めまでの激動の時代を生きていたんですね、すごすぎる
それでは次から渋沢栄一の生涯を具体的に見ていきます。
おしゃべりだけど、聡明な幼少期
小さい頃から何事にもよく励み、真面目な性格を持つ一方でよく喋るおしゃべりな少年でもありました。
5歳で漢文の本を父から学び、7歳で論語や日本史(頼山陽著の『日本外史』)を勉強し、
江戸時代という時代柄、剣術も道場へ行って習得しようとしました。
従兄の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)によく学んでおり、学んでいる内に
「百姓がいなければ米は食べられないのに、百姓は随分虐げ(しいたげ)られている世の中だな、官尊民卑(かんそんみんぴ)だ」と感じたようです。

つまり、格差社会を是正したいと、若い年齢ながら思っていたのですね。
青年期の倒幕計画
1861(文久元)年に坂本龍馬も学んだ北辰一刀流という剣術流派の道場に入ります。
その道場仲間と次第に仲良くなり、倒幕を考え始めます。
なぜ倒幕?!と思うかもしれませんが、
道場には勤皇志士(きんのうしし)と呼ばれる「天皇主導の政治にしようよ!そのために邪魔な幕府を長州と結託して排除しよう!」という思想を持った武士達がいたからです。
栄一は、以前から官尊民卑の思いを持っていたことと、彼ら(勤皇志士)に感化されたことで倒幕を計画します。
結局、従兄の惇忠の弟に説得され、計画は破棄します。
歴史にIF(もしも)は禁忌ですが、もしバレていたら、流罪だけでは済まず、牢獄に入っていたかも。。。そうなると、数々の業績は成し遂げられなかったかもと考えてしまします。
今度は幕府にお仕えする渋沢栄一
倒幕計画失敗後、渋沢栄一の面白いところは、
縁あってか、後の徳川慶喜さんに仕えることになるのです!
この時の慶喜は一橋家の人間でしたので、正確には一橋家に出仕したことになります。
そして26歳の時、栄一は、慶喜が将軍になったことで幕臣になります。
幕臣としてヨーロッパのパリに行き、先進文化を学びました。
この経験はのちの、実業家としての活躍にも影響します。
倒幕を計画していたのに、回り回って幕府をお助けする役職に就くんですね。
それが結果的に事業に結びつく。
人生って面白いです、何があるかわからない、どんな経験も無駄なことはないんですね。
静岡での活躍と官僚時
慶喜は駿府に隠居し、余生を過ごすのですが、それに付いていくように栄一も静岡に行き、活動をします。

静岡でも大活躍な栄一は、今度は大隈重信さんから明治政府に引き抜かれるのです!
幕府側に付いたと思ったら、今度は新政府側で働くのです。こんな波乱万丈な立ち回りをした人は珍しいですね。(あとは榎本武揚ぐらいですか??)
その後、方針の不一致で明治六年には大蔵省を退官します。
しかし、それが実業家として大成する第一歩になるのです。
資本主義の父 具体的な功績
まず最初に手を付けたのは、銀行経営です。
かつて開発を手助けした第一国立銀行の頭取になりました。
ところで第一国立銀行って知ってますか?
実はこれ、現在のみずほ銀行なんです!(今はよくシステムが止まっていますが笑)
今でも十六銀行や、七十七銀行(しちじゅうしちぎんこう)など数字が付いている銀行、今でもちらほら見かけますよね。
それは、明治時代に作られた制度に基づいて付けた名前が今も残っているということです。
ちなみに七十七銀行の創立には渋沢栄一も人材調達や、資金調達を行い、支援していました。
以下から、実業家として渋沢栄一が携わった会社を年号と一緒に羅列しますね。
最初に現在の耳馴染みのある社名と、カッコ内に当時の呼び名を記します。
大日本印刷(集英舎)
日本経済新聞(中外物価新報)
明治18年 キリンホールディングス(ジャパンブリュワリー)
帝国ホテル(東京ホテル)
サッポロホールディングス(札幌麦酒会社)
明治33年 東京経済大学(大倉商業学校)
明治45年 共同通信社(ニューヨーク日本協会協賛会)
本当にすごい業績の数々です。ほとんどの会社名や学校名を皆さん聞いたことがあったのではないでしょうか??もちろん、これだけではなくもっともっと多くの事業を行っています。
第一銀行頭取として融資を行って、企業を支援するだけでなく、
自費で、社会のために教育や医療面にも力を入れていたことがよく分かりました。

まとめ
今回は渋沢栄一さんの生涯を簡単ではありますが、ざっと見てきました。
倒幕→幕府に仕官→明治政府の官僚という流れは、まさに激動でしたね〜
その後は、とにかく本当に多くの事業に参画されていて、驚きました。
こういうお方が新一万円札の肖像に選ばれるのだなと感心しました。
去年の大河の復習、あるいはこれからの一万円札の人の常識に少しでもなったでしょうか??
なったとすればありがたいです〜
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また他の記事も是非どうぞ。。。
ご愛読ありがとうございました。