【イケメン僧侶ここにあり!】江戸時代 大奥の女中がこぞって通い詰めたお寺の実態とは!
大奥の女中たち
さて今回のお題はなんとも生々しいお話ですが、大奥の女中とはそもそも将軍の身の回りのお世話をするために江戸城に住み込みで働いている女性です。
映画なんかで大奥のイメージがあるかもしれませんが、将軍が座につくときには畳敷きの部屋の真ん中通り、左右に見目麗しき女性たちがズラッと並び頭を下げています。
そんな大奥の女中たちは住み込みで働いており、将軍直下ですから基本的に江戸城からの外出は許されません。休みの日がどれだけあったかは定かではありませんが外で遊びたくても遊べませんでした。手紙も親族だけにしか出せませんでした。
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そんな江戸時代おける大奥は女性たちの戦場です。女性のうちの誰がお世継ぎを生むのかが大事なのです。
御台所という正室と、側室などがいますが、何が一番大事なのかというと将軍に気に入られることではなく、やはり子供を、特に男子をもうけることだったのです。
徳川家斉11代将軍は17人の側室と50人の子供をつくりましたが、それでも子供を作れた大奥の女中はほんの一部です。それ以外の女性は他の役割もあり、なかなか禁欲生活をしいられていました。
そんな女性たちの気を抜ける場所が、今回のテーマであるお寺なのです。
お寺
お寺は雑司が谷にあった感応寺というお寺でした。
感応寺はもともと廃寺でしたが、時の将軍の徳川家斉の妻であるお美代の方の父が感応寺にいましたので、その庇護もあって再興しました。
日啓という僧侶はお美代の方の父親であり、将軍の庇護もうけていた感応寺の人で、大奥の女中が連日、感応寺に参拝するので次第に仲良くなっていきました。
日啓も禁欲の身なのですが、大奥の女性を前に我慢もできず、次第に肉体関係へと発展していきました。
中で行われていたこと
中で行われていたことはもちろんアレです。
日啓も大奥の女性の相手をしたことは言うまでもないですが、なんと日啓は自分の弟子たち、特にイケメン僧侶に大奥の女性に相手をさせました。
そうして感応寺にどんどんお金を落としてもらい、寺は大きく発展しました。
処罰
ところが、あるとき感応寺の異変にきがついた、寺社奉行が抜き打ちで感応寺をチェックしました。
すると中ではすごいことが連日のように行われていたことが発覚しました。
中には、長持という荷物を入れる箱の中に隠れて感応寺にやってくる大奥の女中まで発見されたといいます。
しかし、感応寺にお金を出しているのは将軍家斉ですからほとんどお咎めはなしでした。
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そこは本当に良かったですね。大奥の女中もしばしの休息ができ満足もできたと思いますね笑
ただ、家斉死後は、水野忠邦によって日啓は島流しにあっているので、なんともいえない結末ですね。日啓だけならまだしもイケメン僧侶集団を作ったのが良くなかったかもしれません笑
今回はこのへんで失礼します!
次回もお楽しみにください!