【新千円札】幾度も東京大学と対立した北里柴三郎の壮絶な人生とは?!
北里柴三郎ってどんな人だっけ??
こんにちは!
- 北里柴三郎ってどんな人だっけ??
- 柴三郎の幼少期
- 時習館が、、、、
- 運命の先生との出会い
- 東大との軋轢(あつれき)
- ついに破傷風菌発見と血清療法確立!!
- ちょっと余談 血清療法って何?
- 帰国後の出来事
- またもやいざこざ
- おわりに
今回の発信は2024年から新千円札肖像に決定した北里柴三郎さんです!
(以下敬称略させてもらいます)
東京には北里大学という大学がありますが、そこの創設者ですね。
では、他にどんなことをした人なのでしょうか??
生涯を見ていきましょう〜!
柴三郎の幼少期
北里柴三郎は、1853年1月29日肥後国阿蘇郡小国郷北里村に生まれました。
現在の熊本県阿蘇郡小国町(あそぐんおぐにまち)にあたります。
村の名前が北里村で、その場所の北里柴三郎さんなので、
大いに関係がありそうですね。
そんな村に生まれた少年、柴三郎は今で言えば教育ママと教育パパに育てられました。
小さい頃から漢文や歴史を学び、武道も欠かさなかったらしいです。
意外にも、どちらかというと文系だったのですね。
だからこそ、最初は熊本の藩校である時習館に入学しました。
時習館では、生徒に儒教や武道などを教え、一人前の藩士を養成していました。
時習館が、、、、
時習館で学んでいた柴三郎でしたが、、、
入学してまもなく、医学の道に進むきっかけが起こります。
それは、、時習館、、潰れてしまいました!
わずか1年ほどの在学でした。
おそらく途方にくれたと思いますが、その後めげることなく
熊本医学校(現在の熊本大学医学部)に入学します。
今と少しばかり入試制度が違うと言えど、
今も昔も難関であることには変わりません。
小さい頃から多くのことを勉強していたからでしょうか。
すごいです、北里柴三郎さん、尊敬します。
運命の先生との出会い
医学校入学後、医学の勉強に熱を入れようとしていた矢先、
そこで運命を大きく変える人物に出会います。
オランダ人のマンスフェルト先生との出会いです。
ここで柴三郎はマンスフェルト先生に師事し、医学の道を志すようになりました。
ここから歯車が動き始めたんですね。
最初は、オランダ語学習に意欲を示す柴三郎にマンスフェルト先生が
つきっきりで教えるという関係でした。
その甲斐あってか、
2年目からはオランダ語のマンスフェルト先生の講義を
日本語に通訳する役割を
与えられました。
そういうことを繰り返す内に、医学の知識も自然と頭に入っていったのでしょうね。
もちろん、最初から知識はあったでしょうけど、より一層に。
東大との軋轢(あつれき)
さて、熊本医学校で学んでいた柴三郎は、
より医学について学ぼうと
今も昔も医学の最高峰に位置する東大医学部(当時は東京医学校)に
入学します。
しかし、柴三郎は頭が良く能力も高かったが故に、
東大教授の説や考えも論破してしまいました。(笑)
こういったことも度々あり、大学側ともめることも多かったです。
その結果、東大を卒業するのに8年間掛かったみたいです。
しかし、東大にいて良いこともありました。
東大在学中に、医学は「予防」が重要なんだと気づいたそうです。
予防注射
予防医療こそ、医者のするべきことだと思ったそうです。
その後、柴三郎は予防第一ということで、内務省衛生局に就職します。
白金にある東大の医科学研究所の隣には、
旧公衆衛生院の建物があり、現在では港区郷土歴史館となっております。
ご参照ください。↓
https://www.minato-rekishi.com/
私は一度行ったことがありますが、
内装はモダンな建築で、
衛生局という組織が当時はあったのだなと
思ったことを覚えています。
そういった場所に柴三郎は最初就職したのですね。
だいぶ話がそれてしまいましたが、次から本題に戻ります。
ついに破傷風菌発見と血清療法確立!!
就職して数年後、柴三郎はドイツに留学します。
ドイツではローベルト・コッホ先生に師事します。
留学してから4年が経過した頃、、、
柴三郎は破傷風菌という菌だけを抽出する実験に成功しました!
何が凄いのかと言うと、今までは
破傷風菌というと、土の中にいる菌が、知らない間に体内に菌が入り込み
恐ろしい症状を引き起こしていました。
その存在を単体では確認していませんでした。
しかし、それを柴三郎は単体で確認し、さらにはその抗毒素、
つまり、抗体をも発見しました。
そのことがきっかけで、
世界中の学者や医学界が柴三郎を注目しました。
さらにさらに、
免疫となる抗体の発見を応用させ、血清療法という治療法を確立させました。
ちょっと余談 血清療法って何?
血清療法とは??と思うかもしれません。
例えば、あなたが毒蛇に噛まれたとします。
そのままにしていれば最悪死んでしまいます。
なぜなら、あなたの体内には、毒蛇の毒に対抗できる免疫が全くないからです。
だから、その免疫、つまり抗体をあなたの体外で作り出すのです。
毒蛇の毒を使って、人間以外の馬などの体に少量注射します。
すると、馬の体内ではすぐにその毒素を中和するための抗体が作られます。
その血液を取り出し、さらにその血液を凝固させた時の上澄みの部分が血清です。
(ヨーグルトのホエイのようなもの??)
その血清には免疫が含まれているので、あなたの体内に取り込めば、
毒蛇の毒とも安心して戦ってくれるということになります。
この仕組みが血清療法というやつだけど、これを柴三郎は
破傷風の治療に応用したということなのです。
これが世界から称賛された理由なのです。
また、さらに余談ですが。
北里大学の校章は、破傷風菌がモチーフになって作られています。
「學」という字の上の部分が破傷風菌になっています。
校章に菌をかたどったものを使用する大学を私は初めて見ましたね〜
とても興味深く、もう多分忘れません。
こちらをご参照ください。
https://www.kitasato-u.ac.jp/jp/about/overview/symbol_mark.html
帰国後の出来事
帰国後、日本では柴三郎のことを賞賛の嵐が包み込んで
と、なるはずでしたが、、、
実は、東大在学中から、東大と仲を悪くしていた柴三郎は
東大から思わぬ返り討ちに会います。
どこかに研究拠点を持とうとしても、
医学界で幅を利かせている東大が、圧力をかけてくるのです。
「ほうほう、柴三郎と、仲良くするのか」みたいな具合に
(東大が悪者みたいになってて関係者すみません)
そんな状況を見かねた現在の一万円札の肖像の、あの御方
福沢諭吉先生がご支援下さったのです!
そうしてできた私立伝染病研究所で無事研究が進み、
国すらも支援をしました。
そして、破傷風菌意外にも、そのときにはペスト菌も発見し大きな成果を挙げていました。
またもやいざこざ
伝染病研究所で順調に研究をしていたのですが、
伝染病研究所が急遽内務省から文部省の管轄下に移管し、
東大の下に入ることになったのです。
東大嫌いの柴三郎は、すぐに所長を辞め
北里研究所というものを設立します。
これが後の北里大学に繋がってくるのです。
1917(大正6)年には、恩を返すように慶應義塾大学医学部を設立します。
その後、コロナウイルスのニュースで何かと名前を聞くようになった
日本医師会の会長を務めるなど、医学界を引っ張る存在となっていきました。
おわりに
さあ、ここまで北里柴三郎の生涯について見てまいりましたが、どうでしたでしょうか。
今私達が安心して普通の生活が出来ているのは、
血清療法を確立した北里柴三郎のような
偉大な医学者がいてくれたおかげだと分かりましたね。
また、東大とのいざこざがあったことなどは少し意外でしたね。
誤植だ!などなにかあればコメントお願いします。
なにかなくてもコメントどんどんお願いします。
また他の記事も是非どうぞ。。。
ご愛読ありがとうございました。